キャラを使い分けて生きてきた

未だに勉強に戻らずにネットをさまよい続けているのですが、また書き留めておくべき事を発見。キーワードリンクのせいであり、キーワードリンクのおかげでもある。
新しい発見って訳じゃないんだけど、自分が常日頃から思っていたことが文章に起こされていたので引用。

■ どんなキャラ?
キャラクターってのはあるイチ側面であって、それだけでずっと生きてるわけじゃない。みんないろんな面がある。常に情緒が一定な人間なんていないと思う。それに、いる場によって、そこにいないキャラクターにはまっていく、演じていくというのがあると思う。また特定のキャラクターとして扱われることで、より、そのキャラを演じることもあるだろうと思う。役割分担っていうのかな。たとえば、クラスで「かしこい、かしこい」と言われると、家でも勉強する、とか、「やさしいね」と言われれば、みんなに親切にしたりする、とか。自分がやった事に対する評価で、伸びる方向(=キャラクタ付け)が決まっていくのかな。

親といるときには、子どもとして扱われると、喋り方は友達と話すときとは違う。後輩と喋っているときと、タメ、先輩と話すときは違う。いるメンバによって自分のキャラクタが変わる事はよくあると思う。それで、以外とみんな見えない側面もあるけど、そういう多面性があるってことは理解してくれているんじゃないかな?

自分が、どういうキャラで思われているかは分からないが、自分の場合は、意外と相手に対して自分が思われたいキャラクタに見てくれているような気がする。この人にはある側面を見せているけど、そういやあの人には見せていないな、ということに後で気づいたり…。そんなことをグリーの紹介文を読んでて気づくけど、それは自分でしか分からないと思う。相手によって、自分の捕らえ方も様々だなって思う。やっぱり大切なのは、いろんな人と話して、自分を知るってことかな。

INO-WE-BLOG ≡ [いの(うぇ]ぶろぐ)
http://d.hatena.ne.jp/t_o_s_h_i/20040830#p1


t_o_s_h_iさんが言っているのはまったく俺が思っていたことと同じで、疑問なのは全員がこうなのか?ということ。俺はどっちかというと消極的で自分からはあまり話さない方なのだが、そんな俺から見ると、脳と口が繋がっているような年中しゃべっている人は、敬語とかは別にしても、物心ついた頃からキャラなんか作らないで誰にでも同じように接して来たんじゃないかと思ってしまうのだが。
この話題については、またいずれ暇のあるときにもっと深く考えてみよう。

引用に問題がありましたら連絡ください。